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相馬主殿の講演会への誘い2 [釣洋一]

新春第1弾!あさくらゆう氏の講演です。新選組最後の隊長相馬主殿について語って頂きます。新島から東京へ戻った後、箱館新選組の同士大野右仲の配下として豊岡県に出仕。そして、明治8年2月3日に十四等出仕をもって免官となったことが判明するが、東京で切腹した。と(相馬主殿回想録)の解説に記されている。何によって、豊岡出仕免官の事実が判明したのか出典を明らかにしていない。その資料についても語って頂きます。(相馬主殿回想録)では、大野右中については何も触れていません。釣の書き方がまずかったです。関係者の皆様方には、慎んでお詫び申し上げます。相馬と一緒に新島へ流されたのは、上平主税と徳島藩士の海部閑六、海部六太、野尻節助、森戸よう太郎、小川金次郎、加集平左衛門、長坂甚兵衛、渡辺十兵衛、遊佐万之助、林冨太郎、岩間恒次郎と11人の名を(相馬主殿回想録)に上げています。そして、吉見良三の(十津川草もう記)によって、新島の流罪人は15人となっていることから、相馬の記録では4人が
欠如していると書いている。 しかし、相馬と一緒に新島に送られた流人は相馬を含めて18人でした。
前記11人の外に徳島藩士としては、森長左衛門と勝浦周治(出船前に病死・数にはいれず)葛飾の百姓・横川弥右衛門、鶴岡熊吉、常州無宿・倉吉、武州無宿・国吉の5人に上平と相馬とで18人になります。
それにもう一人、罪人ではないが、相馬と一緒に新島に送られた女性がいました。
それは海部閑六妻志げである。夫閑六の介抱の付き添いのために願い出て許されたものです。
以上の18人は、前田道雄と年寄藤右衛門漁船頭の三郎左衛門の警固により、新島権左衛門船にて、明治3年11月18日(1871・1・8)新島に着いたというわけです。
相馬は明治5年10月13日(1872・11・13)30歳で御赦免になりました。あさくらさんに、これらの資料発見のエピソードなどを熱く語って頂きますので御期待下さい■来たる14日(土)16時30分。会費(懇親会を含め)4000円。
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モロ

あさくらゆう先生の講演会、これは必聴ですね!

なにがなんでも駆けつけたいのですが、運悪くその日は転勤する先輩の送別会があるんです。まいったなあー。

遅くなっても顔だけは出したいと思うのですが…。
by モロ (2012-01-13 00:43) 

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